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【追悼】釜本邦茂の若き日と伝説とは!日本を熱狂させたゴールと名言を徹底解説!

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日本サッカー界、そして多くのスポーツファンに惜しまれつつ、8月10日に81歳で逝去された釜本邦茂さん。

釜本さんは「不世出のストライカー」と呼ばれ、1968年メキシコ五輪でアジア人初の得点王、JSL通算歴代最多得点など数々の記録を打ち立て、日本をサッカーの熱狂へと導きました。

本記事では、釜本邦茂さんの若き日の軌跡、伝説になった日本を熱狂させたゴールと名言を徹底解説しましたのでご覧ください!

目次
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釜本邦茂さんの若き日の軌跡

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釜本邦茂さん【出典:YAHOOニュース

釜本邦茂さんの幼少期から高校・大学時代までの軌跡を以下にまとめてみました。


幼少期――自由奔放な成長とサッカーとの出会い

  • 釜本邦茂さんは京都市・太秦で誕生。
  • 幼い頃は近所の広隆寺の境内で遊び、塀や垣根を乗り越えたり、東映撮影所に忍び込んでチャンバラごっこや鬼ごっこといった活発な少年時代を過ごしたとのこと。
    これらの遊びが運動能力や判断力、勇気を磨く基礎となったようです。

小学生・中学生時代――野球からサッカーへの転向

  • 小学校時代は野球(三角ベース)に夢中でしたが、姉の担任だった現役サッカー選手・池田璋也先生に足の速さを見初められ、「サッカーなら世界中に行ける」と勧められ、小学6年生でサッカーに本格転向。動機は「世界を見てみたい」という好奇心でした。
  • 蜂ヶ岡中学校に進学後もサッカー部へ。
    初めは球拾いばかりの下積み生活も、足の速さを評価されてレギュラーに。中学3年時には主将として京阪神三都市大会優勝を果たし、京阪神地域の指導者の注目を集めました。

高校・大学時代――努力、創意工夫、世界への飛躍

  • 16歳で京都府立山城高校進学。
    ・サッカー部で全国大会準優勝、ユース代表に抜擢。
    ・「世界との差」を強く意識し、プレースピードや技術向上に徹底的な努力を注ぎ続けました。この時期から「主体的な挑戦」と「創意工夫」への情熱が際立ちます。

日本を熱狂させたゴール

釜本邦茂さんの日本を熱狂させた「伝説のゴール」は、1968年メキシコオリンピックで日本代表を銅メダル獲得に導いた、まさに日本サッカー史の金字塔です。


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メキシコ五輪大会【出典:JFA.JP
  • 釜本さんは1968年メキシコ五輪大会で全7得点をマークし、得点王になるという快挙を達成しました。

    ・特に開催国メキシコとの3位決定戦では、杉山隆一とのホットラインで2得点を決め、表彰台に日の丸を掲げました。
  • 大会を通じて、多彩な得点パターン(右足、左足、頭)を披露し、「万能型ストライカー」として世界を驚かせます。彼の決定力は国際的にも評価され、アジア人として初の得点王という偉業でした。
  • 日本代表は大会前、西ドイツで約2か月の留学を経験し、世界水準のトレーニングを積んでフィジカル・戦術面も大きく向上。その仕上げとしてメキシコ五輪でチームの要として爆発。

    この銅メダル獲得は、日本サッカー初の五輪メダルであり、釜本の7ゴールが最大の原動力となったことは、新聞・専門誌でも繰り返し語り継がれています。
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日本を熱狂させた“釜本伝説”

**日本を熱狂させた“釜本伝説”**は、記録と記憶の両面で日本サッカー史に刻まれています。


  • JSL歴代最多得点記録
    釜本邦茂さんは日本サッカーリーグ(JSL)で通算251試合出場202得点を記録し、歴代1位の記録を持っています。

    ・得点王7回・アシスト王3回・年間優秀11人賞14回・年間最優秀選手賞7回など、前人未到の成績で「史上最高の点取り屋」と呼ばれました。
  • 得点技術と“消える動き”
    ・多彩な得点スタイル(右足・左足・頭)と、試合中に相手DFが気付かぬ間にゴール前へ姿を現す“消える動き”で、敵を翻弄。天才的な決定力とポジショニングは、日本をサッカー熱狂へと導いた要素のひとつです。
  • メキシコ五輪得点王と伝説のゴール
    ・1968年メキシコオリンピックでは、日本代表の銅メダル獲得に貢献し、7得点で得点王に輝くというアジア人初の快挙を達成。表彰台に日の丸を掲げた瞬間は、日本中を感動と興奮で包みました。

釜本邦茂さんの名言

釜本邦茂さんのストライカー哲学は、極めてシンプルかつ熱いもので、名言やエピソードにその精神が色濃く表れています

「フォワードは点を取ってなんぼや。どうすりゃええか、一日二十四時間考えた」
シュートを決めるにはとにかく何度も練習し、正確に蹴ることが唯一の道であると繰り返し強調。
・この姿勢が彼を「不世出のストライカー」に!

「ノーマークなら俺にパスしろ。1人マークがいても俺にパスしろ。2人いたら…やっぱ俺やな」
自信に満ちたフォワードとしての存在感とゴールへの執念を表す言葉。絶対的なゴールゲッターとしてチーム内での役割を明確にしていた。

「戦術眼は、多くの修羅場をくぐって養われる」
単なる技術ではなく、経験と戦術理解の深さが勝負を決めるとの哲学。不屈の精神で数々の試練を乗り越えた実体験が裏打ちしている。

「入って来るな、ペナルティエリアは俺の仕事場だ!!」
ゴール前での強烈な主張とプライド。ペナルティエリア内では誰よりも存在感を示すストライカーとしての矜持を示した。

「ストライカーは撃ち続けること。失敗を気にしていたら、商売にならない。撃ったシュートすべてが決まっていたら、1万点決めているだろう」
挑戦を恐れずシュートを撃ち続けることを説き、失敗から逃げない強靭なメンタリティが言葉に現れている。

「俺を土台にして超えてゆけ」
自分の記録や精神を後進に託し、さらなる進化を期待する力強いメッセージ。


これらの言葉は、彼が「点を取り続ける」ことに徹底し、技術だけでなく心構えや戦術眼も重視したストライカー像を示しています。実際に本人も「ボールひとつが通る幅があればシュートできる」と語り、技術を追求し続けたエピソードが数多く残されています。

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釜本邦茂さんが日本サッカーに遺したもの

●釜本邦茂さんが日本サッカーに遺したものは、「不世出のストライカー」としての圧倒的な得点力と記録だけでなく、日本サッカー界の発展に大きく寄与したことです。

プレイヤー引退後は日本サッカー協会の副会長を務め、後進の育成やサッカー文化の普及に尽力しました。特に、基本技術の徹底や指導者としての役割に熱心で、彼が主催した「釜本サッカー教室」では多くの若手選手に影響を与え、日本サッカーの基盤づくりに大きく貢献しました。

●さらに、Jリーグ監督や参議院議員としても活動し、多方面から日本サッカー界に影響を与えた点も評価されています。

まとめ

いかがでしたでしょうか?

本記事では、日本サッカー界の英雄・釜本邦茂さんの若き日から晩年までを振り返り、その経歴と伝説を紹介しました。

京都での幼少期や野球からサッカーへの転向、高校・大学時代の努力と創意工夫、1968年メキシコ五輪での得点王という歴史的快挙、JSL歴代最多得点や“消える動き”の妙技、数々の名言、そして後進育成や日本サッカー発展への貢献まで。

圧倒的な得点力だけでなく、不屈の精神と挑戦心で築いた功績は、今も多くの選手やファンに受け継がれています。

ご覧いただき有難うございました。

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