ビリーバンバンのメンバーとして数々の名曲を世に送り出してきた菅原孝さんが、肺炎のため81歳で逝去されました。
柔らかい歌声と人柄で多くのファンに愛され、弟・進さんとの二人三脚で活動を続けてきた姿は、日本音楽史に深く刻まれています。
本記事では、菅原孝さんの若い頃の経歴やビリーバンバンの代表曲、弟・菅原進さんとの心温まる絆エピソードを振り返ります!
菅原孝さん逝去の報

●ビリーバンバンの兄・菅原孝さんは、2025年9月11日午後4時34分、肺炎のため東京都内の病院で逝去されました。享年81歳でした。
⦿葬儀はご遺族の希望により近親者のみで執り行われ、喪主は妻のけい子さんが務めました。
⦿菅原さんは2014年に脳出血を患って以降も音楽活動を続けてきましたが、2024年末から体調を崩し、入院。
・その後肺炎を併発し、2025年5月には誤嚥性肺炎で寝たきりの状態となっていたと報じられています。
・長年にわたり日本の音楽界に大きな影響を与えた功績とともに、多くのファンや関係者から悼む声が寄せられています。
・菅原孝さんのご冥福を心よりお祈り申し上げます。
菅原孝さんの若い頃と音楽との出会い
●菅原孝さんは1944年、東京都国立市生まれです。
⦿家庭は音楽にあふれており、母親はラジオの歌番組で優勝経験もある歌好きの方で、家の中には常に歌や音楽が流れていたそうです。
・少年時代は野球少年で、当初は音楽の道に進むつもりはなかったそうですが、弟の進さんが音楽に夢中になっていく中で、次第にギターや音楽へも親しみを持つようになっていきます。
⦿大きな転機は慶應義塾大学時代、父の紹介もあり、当時著名な作詞家・作曲家の浜口庫之助氏に師事したことです。
・浜口氏の自宅に兄弟で通い、本格的に音楽活動を始めるきっかけを得ました。もし浜口氏と出会っていなければ「音楽の道には進んでいなかった」と語っており、この出会いが兄弟デュオ「ビリーバンバン」誕生の原点となりました。
また、孝さんは慶應義塾大学を卒業しています。
●ビリーバンバン・菅原孝さんの若い頃には、いくつか印象的なエピソードが残されています。
⦿小中学生時代は野球部に所属し、文武両道だったという点が特徴です。勉強もできたが、運動も得意で、当初は音楽の道に進む気はなかったそうです。
・弟・進さんと一緒に家で歌を楽しんでいたが、本格的に音楽の世界を目指したきっかけは、母親が家でよく歌っていたことや、父親の知人で大物作詞家・浜口庫之助氏を紹介されたこと。
・これをきっかけに兄弟で浜口家へ足しげく通い、音楽の基礎やハーモニーの取り方など、本格的な指導を受けました。
⦿大学時代には、孝さんは慶應義塾大学文学部に在籍しながら、生活費を稼ぐために進さんとともに様々なアルバイトに従事。その中で進さんのギターに合わせて自然と歌い、数々のコンテストや音楽イベントで徐々に評価を得ていきました。
・1960年代後半、フォークソングが日本で流行し始めた時期に、自らもグループサウンズやバンド活動に触れた経験を持っていますが、最終的に兄弟デュオという独自の形でデビューすることに!
これらの若い頃の経験や挑戦が、後の「ビリーバンバン」結成、そして時代を超えた名曲誕生につながっていきます。

若い頃の経験や挑戦が、後の「ビリーバンバン」結成、そして時代を超えた名曲誕生に!
兄弟デュオ「ビリーバンバン」結成秘話
●ビリーバンバン結成の背景には、両親の音楽好きと作曲家・浜口庫之助氏との出会いが大きく影響しています。
⦿最初、弟・進さんが大学時代の仲間とバンドを組み、そのバンド名が「ビリーバンバン」でした。
・持ち歌の「白いブランコ」は浜口氏の自宅の庭にあった白いブランコで生まれ、最初は兄の孝さんはメンバーではなかったのですが、浜口氏ら大人たちの勧めで兄弟デュオになりました。
⦿デビュー当時は日本に兄弟による男性デュオがほとんどなく、進さんが高音、孝さんが中低音という対照的な声質を活かして独自のハーモニーを作り上げました。
・デビュー曲「白いブランコ」は1969年にリリースされ、20万枚を超える大ヒット。
・この楽曲は元々B面用でしたが、ディレクターの助言でA面に昇格し、結果的にフォーク界を代表するデュオとして一躍脚光を浴びることとなりました。
⦿また結成当初は、今ではタレントとして有名なせんだみつおさんもメンバー候補でしたが、最終的には兄弟のみでスタートしています。
★この特別な兄弟デュオ結成の秘話は「両親、恩師、仲間たちのまさに結晶」と孝さん自身が振り返っています。
名曲とともに歩んだ音楽人生
●ビリーバンバンの音楽人生は、多くの名曲とともに歩んできました。代表曲には以下のようなヒット曲があります。
- 「白いブランコ」(1969年)
- 「さよならをするために」(1972年)
- 「また君に恋してる」(2007年)
- 「さよなら涙」(2016年)
- 「遅すぎた季節」(1994年)
- 「今は、このまま」
- 「君の詩」
- 「いつか来た海」
- 「めぐり逢い」
⦿「白いブランコ」はデビュー曲でありながら20万枚を超えるヒットとなり、フォークシーンの名曲の一つとして知られています。
・「さよならをするために」はドラマ「3丁目4番地」の主題歌にも起用され、紅白歌合戦にも初出場を果たした曲です。
・「また君に恋してる」は三和酒類「いいちこ」のCMソングとしても使われ、坂本冬美のカバーでも話題になりました。
・また、CM曲としても多くの作品に起用され、ビリーバンバンの優しい歌声は多くの人々の心に響き続けています。
★長年に渡り安定した音楽活動を続け、変わらぬ歌声で多くのファンから愛されてきた菅原孝さんの音楽人生は、日本の歌謡史に確かな足跡を残しています。
弟・菅原進さんとの絆エピソード
●ビリー・バンバンの兄・菅原孝さんと弟・菅原進さんは、1969年のデビューから56年間、音楽人生を共に歩みました。
⦿進さんは「誠実で優しく、思いやりがあり、真面目な兄だった」と語っており、その絆の強さが長年の活動を支えた大きな要因でした。


⦿舞台裏では、兄弟ならではの信頼関係と共に時には喧嘩もあったそうですが、それも絆の深さの証だとコメントしています。
・ライブの最後によく歌われる「白いブランコ フォークロックバージョン」など、兄弟が共に作り上げた音楽はファンにとっても思い出深いものとなっています。
⦿また、菅原孝さんが大病を患った際は、進さんが献身的に車椅子を押し、サポートする姿が見られました。
★兄弟で長年活動を続ける中でお互いを深く理解し合う姿勢が、ビリー・バンバンの安定したパフォーマンスと温かい音楽に繋がっていたといえるでしょう。
ファンや音楽界からの追悼の声
●ビリーバンバンの兄・菅原孝さんの訃報を受け、弟の菅原進さんからは「本当に偉大な兄でした。兄貴、ありがとう」との追悼コメントが発表されました。
⦿進さんは孝さんの誠実さ、優しさ、そして真面目な人柄を強調し、56年間共に歩んできた音楽人生を振り返りながら深い悲しみを語っています。
⦿音楽界からも多くの追悼の声が寄せられ、特に代表曲「白いブランコ」や「また君に恋してる」などが生前の功績として称えられています。
・ファンからは「青春時代の思い出が蘇る」「やさしい歌声が忘れられない」といった感謝の声や哀悼の意が広がっており、SNSでも多くの追悼コメントが見られました。
・また、葬儀は家族の意向により近親者のみで執り行われ、多くの人々がその歌声と人柄を偲んでいます。
★菅原孝さんは長年日本の音楽界に残した足跡は深く、多くの人々に愛され続けています!
2009年に同デュオのフォーク調の曲「また君に恋してる」をカバーした坂本冬美さん(58)が菅原孝さんを追悼した。
「私が“また君に恋してるを歌わせていただいています”とごあいさつをした時に、“頑張ってね”と言ってくださった時の笑顔が忘れられません」と菅原さんの思い出を明かした。
引用元:スポニチアネックスまとめ
いかがでしたでしょうか?
ビリーバンバンの兄・菅原孝さんが肺炎のため81歳で死去されました。
1969年に弟・進さんと兄弟デュオを結成し、「白いブランコ」などの名曲で日本の音楽シーンを彩りました。
若い頃は浜口庫之助氏に師事し、兄弟の強い絆を武器に56年間の活動を続けました。
ファンや音楽界から多くの追悼の声が寄せられており、その優しい歌声と人柄は今後も永く語り継がれていくでしょう。
ご覧いただき有難うございました。






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