和泉雅子(いずみ まさこ)さんは、今年7月、原発不明がんにより77歳で死去されました。
和泉雅子さんは、若い頃、昭和を代表する女優として鮮烈な印象を残し、やがて冒険家として女性初の北極点到達とい
う偉業を成し遂げました。
「日活三人娘」の一人として、ドラマや映画で多くのファンを魅了し、子供の頃から芸能界で輝き続けたその歩みは、まさに波乱万丈。
本記事では、和泉雅子さんは若い頃、何をしていたか?女優や冒険家などとしての活動やエピソードを徹底調査してご紹介します!
和泉雅子の若い頃の主な活動・エピソード

👇和泉雅子さんの基本プロフィールです!
項目 | 内容 |
---|---|
本名 | 和泉 雅子(いずみ まさこ) |
生年月日 | 1947年7月31日 |
没年月日 | 2025年7月9日(享年77歳) |
出身地 | 東京都 |
職業 | 女優、冒険家、エッセイスト |
主な肩書 | 日活三人娘の一人・日本女性初の北極点到達者 |
👇和泉雅子さんの女優としての活動履歴とエピソードをどうぞ!
女優デビューと子役時代
●和泉雅子さんは10歳で劇団若草に入団し、子役として芸能活動をスタートしました。
・劇団若草時代には、多くのテレビ映画やドラマに出演し、とくに「少年ジェット」シリーズなどで注目を集め、自然と“売れっ子子役”と呼ばれる存在になっていきます。
・劇団若草退団後は、喜劇女優を志して金語楼劇団にも入りましたが、その美貌から“大店の御嬢様”“村長の娘”といった役柄が多かったエピソードも伝わっています。
・その後、1961年に14歳で日活に入社し、本格的な女優デビューを果たしました。
・1963年、浦山桐郎監督の映画『非行少女』で主人公の不良少女役を熱演。
・この作品でその演技力が一躍高く評価され、エランドール新人賞やモスクワ映画祭金賞を受賞するなど、若くして女優スターへの道を駆け上がっていきました。
「日活三人娘」としての伝説
●和泉雅子さんは、吉永小百合さん、松原智恵子さんとともに「日活三人娘」と呼ばれ、1960年代の日活青春映画界を象徴する存在でした。
・この3人は、当時の若者文化や映画界に大きな影響を与え、数々のヒット作に出演しながら、それぞれが個性的な魅力で抜群の人気を誇っていました。
#和泉雅子 #日活三人娘
— kazz50 (@horohoro_no_mi) July 18, 2025
女優・冒険家
和泉雅子さん逝去
吉永小百合、松原智恵子と「日活三人娘」
日本人女性として初めて北極点到達を達成
日活1964年『若草物語』🍀 pic.twitter.com/a6Sg1FmERN
・和泉雅子さんは、『非行少女』『エデンの海』といった青春映画での主演によって圧倒的な存在感を放ち、若者たちの憧れの的に。
・歌手としては、山内賢さんとの「二人の銀座」が大ヒットし、マルチな才能でも注目を集めました。
★「日活三人娘」はスクリーンや舞台だけでなく、当時の日本社会においても時代のアイコン的存在となり、現在でも多くのファンから伝説的に語り継がれています!
「渡る世間」やドラマへの出演
●和泉雅子さんは、映画界だけでなくテレビドラマでも幅広く活躍しました。中でも、国民的ホームドラマ「渡る世間は鬼ばかり」には第4シリーズの第28話で栄養士役としてゲスト出演し、印象を残しています。
#和泉雅子 7月31日生、東京都出身、女優、冒険家。1961年、日活に入社。 以降、青春映画に多数出演。吉永小百合、松原智恵子と共に「日活三人娘」として絶大な人気を誇った。また、1989年に日本人女性初の北極点到達。渡鬼・五十嵐牧子役。#渡鬼人物録 #今日は何の日
— 渡る世間の片隅で (@watasumi_net) July 30, 2020
画像:TBS渡鬼4-28 pic.twitter.com/5zI8JkGBo4
・そのほかにも、1959年の「少年ジェット」や「花と果実」「ありがとう」「新・平家物語」「伝七捕物帳」など、多数の人気ドラマに出演。
・昭和から平成にかけて、ドラマやテレビ映画を通じてお茶の間に親しまれ続けました。
★映画で培った確かな演技力と存在感は、テレビドラマでも遺憾なく発揮され、「渡る世間」のような名作から現代劇、時代劇まで、幅広い役柄を自在に演じ分けています。
👇和泉雅子さんは女優から冒険家へ転身!
冒険家としての転身と偉業
●和泉雅子さんは、昭和を代表する女優としての活躍から一転、冒険家への転身を果たしました。
・この転機は、1983年にテレビ番組のドキュメンタリー取材で初めて南極に訪れた体験がきっかけでした。
・壮大な極地の自然と出会い、「地球のてっぺんに立ちたい」という思いが芽生え、北極点への挑戦を決意したそうです。
◦1985年に第一回北極点遠征へ挑みましたが、悪天候や氷割れといった過酷な自然環境、遠征資金1億円以上の借金など数々の困難に直面し、到達は断念。
・しかし諦めず、1989年5月10日、2度目の挑戦でついに日本人女性として初めて北極点に到達する偉業を成し遂げました。この時、徒歩による到達は世界で初めての快挙となり、以降“日本女性初の北極点到達者”として大きな注目を集めました。

◦極限の環境での遠征は命の危険と隣り合わせで、風呂やトイレすら凍傷のリスクがありました。
・遠征により全財産を失うなど厳しい現実も経験しましたが、和泉さんは「物は残らなくても心に素晴らしいものが残った」と語っています。
★北極の自然や遠征を通じて学んだ命の尊さや仲間への思いやり、挑戦し続ける勇気は、その後の人生や講演活動でも語り継がれました。
現在までの多彩な活動
●和泉雅子さんは、1989年の北極点到達という大きな偉業を成し遂げた後も、女優・冒険家として独自の生き方を貫き、多方面で活躍し続けました。
1. 冒険家としての活動・発信
- 講演活動・メディア出演
・北極点到達後は、自身の体験や学びを多くの人へ伝えるため、講演会やフォーラム、各種メディアで積極的に発信。 - 特に「北極点遠征で得た人生の教訓」や「北極が教えてくれた地球環境」などをテーマに、困難に立ち向かう勇気や命の尊さ、自然との向き合い方などを語る講演は幅広い世代に感動と影響を与えました。
- 環境啓発・探検活動の継続
・北極や南極の自然に触れる体験を通じて、地球環境の大切さや極地の現状についても積極的に啓発。
・北極点到達後も「地球のてっぺんに立つことを夢見る人たち」への後押しや応援を継続。
2. 執筆・著書
- 自伝的な書籍や写真集の出版
・北極遠征にまつわる体験・心情を綴った著書を多数出版。- 『笑ってよ、北極点』
- 『ハローオーロラ! 和泉雅子写真集』
- 『私だけの北極点 北緯88度40分』
- 『北緯88度40分めざせ北極点―マコは、がんばった』(児童書)
- 『マコさん北極をゆく』など
これらの著書や写真集は、冒険のリアルさと感動、挑戦することの価値を広く伝えています。
3. 女優・タレント活動の継続
- テレビ・映画・舞台出演
・芸能活動も継続し、映画やテレビドラマ、舞台、トークイベントなどに多数出演。その生き方や考え方は、女優としての演技だけでなく、リアルな言葉や姿勢がさらにファンの心をつかみ続けました。
4. 趣味・多才な活動
- アート・伝統芸能など多彩な趣味
絵画、写真、彫刻、刺繍、鼓、日本舞踊といった幅広い趣味を持ち、人生を豊かにするさまざまな表現活動にも力を注いでいました。
5. “生前葬”を自ら開催し話題に
- 生前葬の実施
◦和泉雅子さんは自らの“生前葬”を開催したことでも大きな話題となりました。
・生前、感謝や思いを伝え合いたいという想いから、自身が主催者となり多くの人々と交流を持ち、「お別れ」ではなく「感謝」や「人生の節目」としての時間を大切にされたエピソードがあります。
・日本の芸能界でも珍しく、話題を呼びました。
★和泉雅子さんは、北極点到達をはじめ、講演・執筆・芸術など幅広い分野で活動を続ける傍ら、「生前葬」というユニークな人生の区切り方でも注目され、最後まで“自分らしい”生き方を多くの人に見せてくれました。
和泉雅子は若い頃、何をしていた?女優や冒険家などとしての活動やエピソードを徹底調査!まとめ
いかがでしたでしょうか?
和泉雅子さんは昭和の大人気女優「日活三人娘」として芸能界で輝くだけでなく、日本女性初の北極点到達という冒険家としても歴史に名を刻みました。
女優、冒険家、著述家、さらには生前葬の開催まで、多彩な人生を駆け抜けたその軌跡は、世代を超えて多くの人に
勇気と感動を与えています。
ご覧いただき有難うございました。
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