日本のボウリング界を代表するプロボウラー、中山律子さんが2026年11月7日、84歳で逝去されました。
「さわやか律子さん」の愛称で親しまれた中山さんは、1969年に女子プロボウラー第1期生としてデビュー。
1970年にはテレビ中継で女子プロ初のパーフェクトゲームを達成し、翌年にはテレビCMへの出演をきっかけに全国的な人気を集めました。
この記事では、中山律子さんの訃報をはじめ、若い頃の経歴やプロボウラーとしての活動実績、印象に残るエピソード、そして日本のボウリング界に残した功績について、分かりやすく紹介します!
中山律子さんの訃報

◦日本のボウリング界を長年にわたって支えてきた中山律子さんが、2026年11月7日に84歳で亡くなりました。
日本プロボウリング協会が同日、公式サイトで発表。
発表によると、中山さんは病気療養中だったとのことです。
なお、同協会は、葬儀・告別式等の予定については、現在確認中と公式サイト上で説明しています。
◦競技者としての輝かしい実績だけでなく、長年にわたる普及活動や後進の育成も、中山さんが残した大きな功績です。
★日本のボウリング界にとって、まさに時代を代表する存在だったといえるでしょう!
中山律子さんの基本プロフィール
👇ここでは、中山さんの基本プロフィールを紹介します。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 名前 | 中山律子(なかやま・りつこ) |
| 生年月日 | 1942年10月12日 |
| 出身地 | 群馬県草津町 |
| 職業 | 元プロボウラー |
| プロデビュー | 1969年 |
| プロ資格 | 女子プロ第1期生・ライセンスNo.2 |
| 主な実績 | 女子プロ初のテレビ中継パーフェクトゲーム、通算33勝 |
| 主な役職 | 日本プロボウリング協会会長、名誉会長など |
| 主な受賞・顕彰 | 2017年日本プロボウリング殿堂入り |
◦中山さんは群馬県草津町で生まれ、幼少期に鹿児島県へ移籍。
鹿児島女子高校時代はバレーボール部に所属し、卒業後は会社員として働いていました。
その後、ボウリングと出会い、1969年の女子プロボウリング第1回プロテストに合格。
👇その後、女子プロボウラーとしての道を歩み始めました。
中山律子さんの経歴と活動実績
1969年:女子プロボウラー第1期生としてデビュー
◦中山律子さんがプロボウラーとしてデビューしたのは1969年です。
この年に行われた女子プロボウリング第1回プロテストに合格し、女子プロ第1期生に。
当時、女子プロボウリングはまだ発展途上の時代です。
その中で中山さんは、競技者として実力を磨きながら、女子プロボウラーの存在を広く知らしめていきました。
1970年:女子プロ初のパーフェクトゲームを達成
◦中山律子さんの名前を全国に広める大きなきっかけとなったのが、1970年のパーフェクトゲームです。
同年、テレビ中継された試合で、女子プロ初のパーフェクトゲームを達成しました。
ボウリングのパーフェクトゲームとは、1ゲーム12回の投球機会ですべてストライクを取り、300点を記録することです。
高い技術力と集中力が求められる、非常に難しい記録です。
テレビ中継でこの偉業を達成したことで、中山さんは一躍注目を集めました。
ボウリングの魅力やプロ選手の実力を、多くの視聴者に伝える出来事となりました。
1971年:「さわやか律子さん」として全国的な人気に
◦中山律子さんは、競技者としての実力だけでなく、親しみやすい人柄でも人気を集めました。
1971年にはテレビCMに出演。
「さわやか律子さん」の愛称が広まり、全国的な知名度を獲得しました。
当時のボウリングは、テレビや娯楽を通じて多くの人に親しまれるようになっていた時代です。
中山さんの活躍は、ボウリングを競技として楽しむ人だけでなく、テレビで観戦する人にも大きな影響を与えました。
★その結果、1970年代のボウリングブームを支える存在となりました。
プロボウラーとして通算33勝を達成
◦中山律子さんは、人気だけでなく競技者としても優れた実績を残しています。
プロとしての通算優勝回数は33勝。
女子プロボウリング界の歴史に残る記録です。
中山さんは、華麗な投球フォームでも知られていました。
投球後に右手を高く上げ、右足を後ろに伸ばす姿は、多くのファンの印象に残っています。

現役選手を引退後の活動
◦現役選手としての活動を終えた後も、中山律子さんはボウリング界に関わり続けました。
1998年には、ジャパンレディースボウリングクラブ(JLBC)の会長に就任。
女子ボウラーの活動を支え、ボウリングの普及や発展に取り組みました。
ボウリングを長く続けられる環境づくりに取り組んだことも、大切な実績の一つです。
◦2004年、中山律子さんは日本プロボウリング協会の会長に就任。
女子プロボウラーとして活躍してきた中山さんが、ボウリング界全体の運営や発展を担う立場に。
協会の会長として、プロボウリングの普及や競技環境の整備などに取り組みました。
2012年には会長を退任し、名誉会長となっています。
◦2017年、中山律子さんは日本プロボウリング殿堂入りを果たしました。
女子プロボウラー第1期生としてのデビューから、テレビ中継でのパーフェクトゲーム、数々の優勝、そしてボウリング界の発展への貢献。
これらの功績が高く評価されました。
★その功績は、後に続く選手たちにとっても大きな意味を持っているといえます!
中山律子さんの印象に残るエピソード
「さわやか律子さん」の愛称で親しまれた
◦中山律子さんを語るうえで欠かせないのが、「さわやか律子さん」という愛称です。
1971年のテレビCM出演をきっかけに、この愛称が全国的に広まりました。
中山さんは、ボウリングの実力だけでなく、明るく親しみやすい雰囲気でも多くの人に愛されました。
★ボウリングを知らない人にも名前が知られるようになり、女性プロボウラーへの関心を高めるきっかけに!
テレビ中継でのパーフェクトゲームが大きな話題に
◦中山律子さんの代表的なエピソードとして、1970年のパーフェクトゲーム達成があります。
女子プロ初のテレビ中継でのパーフェクトゲームという記録は、当時のボウリング界にとって大きな出来事でした。
300点という完璧なスコアを達成するには、正確な投球技術だけでなく、強い集中力も必要です。
中山さんの快挙は、プロボウラーの技術の高さを多くの人に伝えました。
須田開代子さんとのライバル関係
◦中山律子さんと同時代に活躍したプロボウラーとして、須田開代子さんの存在も知られています。
二人は女子プロボウリング第1期生としてデビューし、競技の発展を支えました。
当時は「人気の中山、実力の須田」といった言葉で二人の特徴が語られることもありました。
それぞれの個性や実力が注目され、女子プロボウリング界を盛り上げる大きな力に。
ライバルとして競い合う姿は、ボウリングファンにとっても魅力的なものでした。
二人の活躍は、女子プロボウリングの歴史を語るうえで欠かせないものとなっています。
中山律子さんの訃報にSNS上や関係者の反響は?
SNS・ネット上の反響
✅「昭和を代表するプロボウラーだった」「一時代を築いた人だった」と、ボウリングブームを牽引した存在としての功績を悼む投稿が見られます。
✅「素晴らしい活躍をありがとうございました」「ボウリング業界の発展に大きく寄与した」と、競技者としての実績だけでなく普及への貢献を評価する声が多数あります。
✅「さわやか律子さん」という愛称や、1970年の女子プロ初となるテレビ中継でのパーフェクトゲーム(300点)が特に思い出され、当時の映像や番組を振り返る反応につながっています。
✅病気療養中だったとの発表を受けて、突然の訃報に衝撃を受ける声もあり、ご遺族や関係者への弔意が広がっています。
関係者・著名人の追悼
| 人物 | 反響・追悼内容 |
| 桑田佳祐 | ラジオで「太陽のような美しいほほ笑みだった」と追悼。1970年のパーフェクトゲームを「歴史が変わった瞬間」と振り返り、ボウリング界から中山さんを超えるスターが生まれることを願いました。 |
| 松尾貴史 | Xで追悼。NHK FM番組への出演が最後となったことを明かし、左利き用にオーダーメイドされたマイボールとマイシューズを贈られた思い出を感謝とともに綴りました。 |
| 扇一平 | Xで「番組でもボウリング活動でも大変お世話になり可愛がっていただきました」と述べ、心から冥福を祈りました。 |
まとめ:中山律子さんが残したもの
いかがでしたでしょうか?
中山律子さんは、1969年に女子プロボウラー第1期生としてデビューし、日本のボウリング界を代表する選手として活躍しました。
1970年には女子プロ初のテレビ中継パーフェクトゲームを達成。
1971年には「さわやか律子さん」の愛称で全国的な人気を集め、1970年代のボウリングブームを支える存在となりました。
プロとして通算33勝を挙げたほか、ジャパンレディースボウリングクラブや日本プロボウリング協会の会長を務め、ボウリング界の発展にも尽力しました。
その歩みは、女子プロボウリングの歴史そのものといっても過言ではありません。
競技者としての輝かしい実績、ボウリングの魅力を広めた人気、そして後進の育成や競技の発展に取り組んだ功績。
中山律子さんが日本のボウリング界に残したものは、これからも多くの人に受け継がれていくことでしょう。
心よりご冥福をお祈り申し上げます。
最後までご覧いただき有難うございました。


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